2011年11月20日

福田興次さんを思う 今さらではなく今から

福田興次さんが9月13日に逝去されてから2か月がたった。

その訃報を耳にしたとき大きな穴がこころの中にぽっかり空いたようで、体から力が抜けて出てしまったようだった。

福田さんはまだ65歳だった。

福田さんとお会いしたのは、2003年にNPO法人地域産業おこしに燃える人に選定され、首相官邸で小泉首相との会合に招かれた時だった。その後、2005年に燃える人の会を結成した頃より、水俣から東京にお見えになる度にお会いする交流が始まった。

福田さんは、水俣の地にあって、公害で有名になった水俣の復興と新たなイメージを創出しようと、不知火湾を見渡せる丘に「福田農業ワイナリー」をお母様と開墾しながら作り上げた。その農場はみかんを中心として循環する農場で、みかんの皮、渋、実など、捨てることなくすべてを生かした商品づくりで、まさに循環型農業を実践して見せた。究極のエコ農業だった。

福田さんは、「福田スマイル」を常に絶やさず、出会う人を幸せにしてくれる人だった。そして、お会いするたびに「関さん、今さらって言ったらだめなんだよ。今からだからね。」と、挑戦する姿勢を見せてくれた。穏やかな姿の中には、熱い、熱い情熱が秘めていたことが分かる。

そして、もう一つの口癖が「魚を与えず、竿を与えよ」と言って、その場しのぎの戦略ではなく、水からが汗をかいて解決する仕組みや知恵を与えることの重要性を常に語ってくれたものだった。本質を見抜ける大人の男だったと思う。

福田さんの隣でそのお話を聞くだけで安心できたそんな人だった。

まだ65歳。水俣を熊本をそして日本を担っていく大切な人だった。
御本人も、もう少しの人生を望まれたことだろう。
あまりにも若すぎる死であり、この2カ月悲しみに包まれた時間だった。

福田さんの思いは、奥様や息子さんや娘さんとともに、私たち燃える人の心にも多くの大切なものを残してくれた。

私も福田さんの言葉を信じて「今さらでなく、今からだからね。」と
前に進んで行こうと思う。

そしてもっと早くにこの言葉をお伝えしたかった。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう」と。






     前列 白いジェケッツの女性が私 そのすぐ後ろが福田さん

         【 燃える人の会にて2004年  】  


Posted by 関幸子 at 01:08Comments(1)